2009年2月11日
大阪ハリケーン!
俺は1997年3月1日。メキシコでデビューした。
そして日本で初めて試合をしたのは1998年12月。
今とは違うマスク、リングネームだった。
試合は技のミス連発でとにかく酷かった。
あまりに悔しくてリング上で悔し涙を流した…。
そのときセコンドにいた練習生。
後日、人づてにその練習生からみた試合の感想を聞いた
『正直技のミスはいっぱいありましたが気持ちは伝わりました』
とのことだった。
名前も顔も覚えていないこの練習生のコメントは無様な試合をして
『俺はメキシコでやっていことは何だったんだ。』
と落ち込んでいた俺の心に響いた。
月日は流れメキシコでの生活に限界を感じ日本に帰国したのが2000年7月
。
『果たして俺の力が日本で通用するのか?日本でプロレスラーとしてやれるのか?』
という不安を持ったまま月に1~2試合という数少ない試合を無我夢中で闘いながら
『このままズルズルとバイト中心の生活でプロレスを続けていいのか?
プロレスに失礼じゃないのか?』
という気持ちが常に心の中にあった…。
そんなとき、2001年1月あの時は練習生だった彼とのシングルマッチがとある団体のメインで組まれた。
彼は俺が日本での初試合を終えメキシコに戻った後にデビュー。
体も大きく若さと自身に満ち溢れていて将来を有望視されていた。
正直焦った
『今のままではダメだ。』
そう思い、バイトをしばらく休んでトレーニングに集中した。
そして迎えた当日。
試合は自分自身初めてシングルマッチで20分を越える試合となり…
なんとか勝った。
勝利した瞬間もの凄い充実感と一つの壁を越えたのを感じた。
たが…
試合後セコンドについていた筑前りょう太が
『まだまだやれるよ』
と言われ充実感も吹っ飛んだ。
『確かにそうだな…まだまだここで満足しては駄目だ。』
一つの壁は越えたがこの一言によってすぐに新しい壁ができたような気がした。
その後、ビリーケン・キッドとなった俺は大阪プロレスに入団。
たくさんの壁にブチあたり、もがき苦しみながらなも彼のことは常に気になっていた。
彼がプロレスを続けてるのかどうかさえわからない時期もあったが
数年後…
彼は『秀吉』となって俺の前に帰ってきた。
大阪プロレス参戦当時の秀吉は大阪プロレスの戦いに戸惑いを感じているのか力を出し切れていない感じがした。
『こんなもんじゃないだろう!』
彼の力を知っているだけに歯痒かった。
だがそれも時が経つにつれて解消。
気がつけばタッグチャンピオンになり
そして
ついに
シングルの王者となった。
全ては彼の努力の賜物だろう。
あの時とは比べものにならない自信とオーラを身に纏い
あの時とは比べものにならない巨大な壁となって今俺の前に立ちはだかっている。
俺はこの一年間で三度も欠場しほとんど試合にでていない。
欠場する度に考えた
『このままプロレスを続けていいのか?
この怪我は神様が俺にプロレスを辞めろといっているのではないか?
考えるチャンスをくれてるいるのか?』
俺の出した答えは
『応援してくれる人達がいる限りプロレスを続ける』
果たしてこの答えがあってるのかどうか?
俺の前に立ちはだかる
『秀吉』
という巨大な壁。
これを越えなければ先はない。
欠場と復帰を繰り返す中で
『いつまでプロレスができるのか』
という現実と真剣に向き合う時間もあった。
この試合で終わってもいい
悔いは残したくない。
覚悟を持ってハリケーンのリングに立つ。
相手が秀吉なら思い残すことはない。
8年前のように俺はこの壁を超えられるのか?
あの時、筑前が俺に言った
『まだまだやれる』
と言う言葉…
そしてまたあの時と同じように俺の前に立つ
『秀吉』
俺の出した答えは間違っていなかったことを証明してみせる。
全ての答えはもうすぐ出る。
2009年2月15日
『大阪ハリケーン』という最高の舞台で。
